
「一番の近道は遠回りだった」。神戸大学入学式の記念講演で、大ヒット漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の名言を引き、新入生に語りかけた。今年1月、『藍を継ぐ海』で第172回直木賞を受賞した伊与原新さん。神戸大学理学部を卒業し、研究者の道を歩んでいたが、40代を目前に作家に転じた。その歩みは、まさに「遠回り」に見える。研究生活の挫折、しばらく売れなかった小説、それでも書き続けた日々。科学の視点と人間の営みが絡み合う独自の作風で多くの読者を引きつける伊与原さんに、大学時代の思い出や自身の道のり、作品に込める思いなどを聞いた。
神戸大学で研究の基本を教わった
直木賞を受賞した『藍を継ぐ海』は、表題作を含め5編からなる。徳島県の浜で産卵するウミガメ、山口県の孤島で採取される萩焼の土、奈良県?吉野が最後の捕獲地とされる絶滅種のニホンオオカミなど、日本各地のさまざまな題材に光を当て、そこに隠された謎を個性豊かな人物の心情とともに描く。

過去の作品と同様、自然科学の視点と物語の融合が絶妙で、直木賞の候補になったのは2度目だった。受賞会見では「くすぶっていた地球科学研究者が、ひょんなことから小説を書き始め、気がつけばこんなところまで来てしまったという不思議な気持ちです」と、柔和な笑顔を見せた。
出身は大阪府吹田市。理学部を志したのは、高校時代、地球物理学者?上田誠也氏の『新しい地球観』を読んだことがきっかけだ。地震や火山の分布を説明するプレートテクトニクス理論に感動を覚えた。1年の浪人を経て、神戸大学に入学。高校の教諭から「神戸大学は地球物理学や地質学の研究者がそろっている」と聞いたことも、志望した理由の一つだった。
大学では、最初から勉強熱心だったわけではない。自宅近くの遊園地?エキスポランドや学習塾でのアルバイトに精を出し、テニスやスキーを楽しんだ。バイクの免許も取り、ツーリングに出かけた。そんな学生生活で、後の研究テーマとなる「地磁気」に興味を抱かせてくれたのが、恩師となる兵頭政幸名誉教授の授業だった。地磁気と気候変動の関係など、地球全体を俯瞰(ふかん)する講義が毎回楽しみだった。
4年生となり、卒業研究に選んだ分野は、古い時代の地磁気を研究する「古地磁気学」。地磁気の研究室では4年生が毎年1人、南氷洋航海に同行できることも大きな理由だった。実際、同行の幸運に恵まれただけでなく、その研究室で学んだ研究の基本姿勢や倫理観、論文執筆の作法は、後の研究生活で重要な意味を持ったという。
「例えば、自分と他人の主張をしっかり分けること、自分が得たデータと過去の研究を峻別すること。推測は一つだけとし、推測の上に推測を重ねないこと。そうした重要な基本を教わり、リファレンス(資料の参照、引用)の方法も学びました。それは今、小説を書くうえでも大変役立っています」
研究者としての苦悩。逃避から始まった小説の執筆
大学院は、神戸大学の恩師の勧めで東京大学に進んだ。そこは、常に最先端の課題に向き合い、日本のトップクラスを競い合う研究者の集団だった。
「周囲からはまず、『何しに来たの?』と聞かれるんです。それは嫌味ではなく、誰もが何かを突き詰めようとして入学してきているから。自分は、授業の内容も大学院生同士の議論も理解できず、『大変なところに来てしまった』と思いました」
それでも、コツコツと実験を続けた。実験の手法やデータの集め方など、1人でできる基礎は神戸大学時代に身に付けていた。地道な努力を重ねるうち、少しずつ周囲の議論が理解できるようになり、自信もついた。修士課程から博士課程への進学を迷っていたときには、先輩が「やめるのはもったいない」と言ってくれた。
「分からないことでも勉強すればなんとかなる、という感覚を得たことは大きかったと思います。博士課程での研究はとても楽しかったですね」。2001年に博士号を取得。フランス留学などを経て、富山大学理学部地球科学科の助手(後の呼称は助教)に就任したのは30歳のときだ。研究者としての歩みは順調に見えた。
しかし、数年すると研究に行き詰まった。古地磁気学では、岩石などを採取し、それが形成された時代の地磁気の情報を解析するが、自身が対象にしていたのは数十億年前という太古の時代。その古さゆえに、信頼できるデータを得るためのハードルは高い。次第に研究のモチベーションが下がり、好きだったミステリー小説を読む時間が増えていった。
小説に逃避するうち、ミステリーのアイデアを思いつき、最初に書き上げた作品が江戸川乱歩賞の最終候補に残ったのは2009年のこと。受賞は逃したが、出版社の編集者から「ぜひ書き続けてください」と、執筆の背中を押すメッセージを受け取った。
そして翌年、デビュー作となったのが、第30回横溝正史ミステリ大賞を受けた『お台場アイランドベイビー』だ。東京湾北部地震で壊滅的な被害を受けた東京が舞台の近未来ミステリー。大学3年で経験した阪神?淡路大震災の被災地?神戸の光景が、作品の随所に反映されている。
追求するのは面白さ。「科学を分かりやすく」ではない
デビュー当時はまだ富山大学に勤務していたが、研究者と作家という二足のわらじを履き続けることは難しかった。「自分は凡人なので、どちらかを選ぶしかなかったんです」。研究者仲間に惜しまれつつ、2011年に大学を退職。専業作家の道を歩み始めた。
しかし、ここからがまた、新たな壁の始まりだった。原稿の依頼は来るが、作品が売れない。デビュー作の受賞の際、選考委員の一人で、尊敬する作家の綾辻行人さんから「あきらめずに書いていれば、いつかきっと日の目をみるよ」という言葉をかけられたが、その本当の意味を思い知った気がした。それはつまり、「あきらめずに書き続ける」ことの過酷な現実を示していたのだ、と。

苦しい日々を打ち破ったのは、2018年に発表した短編集『月まで三キロ』だった。人生に行き詰まった人や、悩みを抱える人々が、科学の世界に偶然触れ、生き方に変化が生まれる。そんな珠玉の物語が反響を呼び、翌年の新田次郎文学賞を受賞した。
執筆のきっかけは、親しい編集者から「科学に無縁の人が科学に触れた瞬間、世界の見え方が少し変わるというような感覚を小説にできませんか」と言われたことだった。作品には、天文学、気象学、地質学などさまざまな分野の素材が織り込まれるが、知識が前面に出ることはなく、人間のドラマが心に残る。この一作で広く名前を知られるようになった。
ただ、自身は「科学を分かりやすく伝えたい」とも「人間のドラマを書きたい」とも考えたことはないという。
「僕自身が面白いと思うものを書いているだけで、それが科学の題材ということなんです。自分の中ではエンタメ小説と言えばミステリーであり、アイデンティティーは『ミステリー作家』。大事件は起こらないけれど、小さな謎が最終的に明かされる展開が多いと思います。人間の心情はよく分からないので、精いっぱい想像して書いています」
科学的な題材から着想することもあれば、登場人物から考えることもある。その二つを頭の中で組み合わせ続け、パズルのように「カチャ」とはまった瞬間に書き始める。
昨年、NHKでドラマ化された小説『宙(そら)わたる教室』は、実話に基づきつつ、定時制高校の科学部の生徒と惑星科学という組み合わせを鮮やかに描き上げた。
白地図に多くの出会いを描き込んで

今年4月、神戸大学の入学式で行った記念講演のタイトルは「白地図を携えて」。小学生の息子が大好きだという「ジョジョの奇妙な冒険」から、「一番の近道は遠回りだった」という登場人物の言葉を紹介しつつ、演題の意味を語った。
?人間はなぜ、しばしば遠回りに見える生き方をするのでしょうか。それは、生まれたとき、最短のルートや正解の道が描かれた地図が誰にも用意されていないからでしょう。私たちに渡されたのは、何も描かれていない白地図なのだと思います?
伊与原さん自身が白地図に描いてきた道には、多くの行き止まりがあり、迷うこともあった。それでも歩みを止めなかったのは、多くの人との出会いに助けられてきたからだった。そんな経験を振り返りながら、新入生に応援の言葉を送った。
?行き止まりに見えるところは、別の方向へ踏み出す分岐点。そこでうろうろしていると、新しい出会いが次の道を見つける手がかりを与えてくれます。困ったときには、地図を見返してみてください。そこに描かれた出会いや学びが多ければ多いほど、助けられることも増えるはずです?
今、直木賞という一つの分岐点を越えた伊与原さんは、どんな道を目指そうとしているのか。そんな問いを投げかけると、「アマチュアの心で、プロの仕事をしたい」という答えが返ってきた。
直木賞受賞作でさまざまな地方を舞台に書き、日本各地に根づく文化や歴史、自然の多様さをあらためて知った。地方には、自分にとって未知で、地元の人さえ気づいていない宝のような題材が無数にあると感じた。
これまであまり興味がなかった歴史の分野にも関心が広がっているという。次に出版予定の作品は、女性科学者の草分けとして知られる猿橋勝子(1920-2007)の生涯を描く評伝小説だ。さらに「戦争と科学」といったテーマも温めている。「素人」の新鮮な感覚を大切にしながら、小説のプロとして面白さを追求する。そんな姿勢で、これからも新たな道を切り開こうとしている。
略歴
いよはら?しん 1972年、大阪府吹田市出身。1996年、神戸大学理学部地球科学科(現?惑星学科)卒。東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻し、2001年、博士課程修了。博士(理学)。富山大学理学部地球科学科の助教だった2010年、『お台場アイランドベイビー』が第30回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、作家デビュー。2019年、『月まで三キロ』で第38回新田次郎文学賞。2021年、『八月の銀の雪』で直木賞と山本周五郎賞の候補となった。他の作品に『ブルーネス』『宙(そら)わたる教室』など。東京都在住。